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日本パグウォッシュ会議ヒストリープロジェクト

公開No.04-05「初期パグウォッシュ会議と日本グループ」 (前編・後編)

公開No.04

「初期パグウォッシュ会議と日本グループ」前編

【公開日】2017年3月5日

【再生時間】約5分

【証言】

 小沼通二(慶応大学名誉教授)

【構成、解説、インタビュアー】

 黒崎 輝(福島大学准教授)

【制作協力】

 高原孝生(明治学院大学教授)

【企画・制作】

 日本パグウォッシュ会議ヒストリープロジェクト

解説

公開No.05

「初期パグウォッシュ会議と日本グループ」後編

【公開日】2017年3月5日

【再生時間】約5分

【証言】

 小沼通二(慶応大学名誉教授)

【構成、解説、インタビュアー】

 黒崎 輝(福島大学准教授)

【制作協力】

 高原孝生(明治学院大学教授)

【企画・制作】

 日本パグウォッシュ会議ヒストリープロジェクト

 1957年8月にカナダのパグウォッシュで開催された科学者会議の成功を受け、パグウォ ッシュ会議は誕生した。バートランド・ラッセル(BertrandRussell)を議長とする継続委員会が発足し、東西の垣根を超えて科学者が世界の諸問題について討議するための国際会議が継続的に開催されるようになった。パグウォッシュ会議が5周年を迎えた1962年までに10回の国際会議が開かれ、その後の活動の礎が築かれた。 以後、5年を1期(quinquennium)として日標や活動、運営体制を見直しながら、パグウォッシュ会議は国境を越えた科学者のネットワーク組織・運動として存続してきた。
 その第1期(1957 -1962年) の国際会議において主要な議題になったのは、軍縮であった。東西冷戦を背景に米ソ両国が熾烈な核軍備競争を繰り広げるなか、核戦争を回避しつつ、核軍備競争を抑制することが、パグウォッシュ会議の最優先課題になったからである。国際社会で懸案になっていた核実験の禁止や、ジュネー ヴの多国間軍縮交渉の議題になった全面完全軍縮(GCD)といった具体的な軍縮措置をめぐって討議が行われた。当時は米ソ関係が不安定な時期であり、軍縮間題をめぐる米ソ間の対話が途絶えることもあったが、パグウ ォッシュ会議では米国とソ連の科学者が軍縮間題をめぐって議論を続けた。米ソ両政府の非公式な意思疎通の場としての性格も、パグウォッシュ会議は帯びるようになった
 この時期、パグウォッシュ会譲において大きな存在感を示したのは、米英ソ3国の科学者であった。まず、パグウォッシュの国際会議を企画・運営する継続委員会は、前述の通り、それら3国の科学者で構成されていた2。また、第10回までの国際会議には、それら核保有国から比較的多くの科学者が招待され、参加した3。背景には、米英ソ3国が軍縮や世界の安全保障をめぐる国際政治において大きな影響力を持ち、パグウォッシュ会議が各国政府の政策に影響を与えることをめざしていたという事情があった4。そのため、第2回会議以降、会議提出論文や議事録、声明などを主要国政府に送付することが慣行になった
 日本国内では第1回会議後、湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌ーを中心としてパグウォッシュの日本グループが誕生し、日本の科学者とバグウォッシュ会議をつなぐ懸橋になった。同会議以来、パグウォッシュ会議参加者は、パグウォッシュ会議の国際本部に招待された者に限定された。その一部は継続委員会が会議のテーマなどを考慮して選定した。しかし、大半の招待者は継続委員会によって直接選ばれたわけではなく、同委員会が各国に参加枠を割り当てた上で各国の連絡窓口に招待者の推薦を依頼し、 各国から推薦された招待者に国際本部が招待状を送るという手続きが採られた6。日本では第1回会議に参加して以来、 湯川秀樹が日本における連絡窓口を務めた。
 パグウォッシュの国際本部からは湯川らに毎回会議への招待状が届けられたが、第1期の10回の国際会議に参加した日本の科学者は多くなかった。第1回会議に湯川、朝永、小川岩雄が参加したが、第2回会議には日本から誰も参加しなかった。1958年 9月にオーストリア(キッツビュエル、ウィ ーン)で開かれた第3回会議には、湯川、朝永、坂田、小川、三宅泰雄(地球化学)が参加した。湯川、朝永、坂田がパグウォッシュ会議に顔を揃えたのは、 これが最初で最後になった。そして第4回から第6回までパグウォッシュ会議に参加したH本の科学者はおらず、1961年9月に米国(ストウ)で開かれた第7·8回会議に豊田利幸(物理学)が初参加した。 翌62年8月末にはイギリスのケンブリッジで第9回会議、9月初頭にロンドンで第10回会議が開かれ、湯川が両会議に、小川と亀淵迪(物理学)が第10回会議に参加した7。第1期国際会議の参加者の大多数を自然科学者が占めたが8、日本からの参加者は全て自然科学者(三宅以外は物理学者)であった。
 日本グループの国内活動も始まった。映像の中で小沼氏が語っているように、国際会議の前に出席者のための勉強会を行なったり、 国際会議後に出席者の報告会を開いたりしていた9。第3回会議前に開かれた「朝永セミナー」は、日本グループの形成という観点からも注目に値する。軍縮問題について集中討議した第2回パグウォッシュ会議には日本から誰も参加しなかったが、第1 回会議に参加者した湯川らには会議の提出論文や討議記録が届けられた。朝永はそれが当時の日本では非常に珍しい文献であることを重要視し、第3回会議の9月開催が決まったことも踏まえ、若手の物理学者を集めて第2回会議に提出された論文と記録の輪講会を5月に始めたのである。この朝永セミナーは第3回会議直前の8月末まで大体週1回、都内の大学で行われた。朝永は必ず出席して座長を務め、時折、名古屋から坂田が参加することもあった10。そして朝永セミナーには日本グループの活動に継続的に関わることになる中堅・若手の物理学者が参加していた。小沼氏はその一人であった。
 さらに日本グループの科学者たちは、パグウォッシュ会議の活動を日本の科学者や市民に精力的に紹介した。政府と科学者の関係は国ごとに異なり、日本の科学者は政府の政策決定に大きな影響力を持たず、日本政府はパグウォッシュ会議に対して冷淡であった11。このような日本の国内事情もあり、日本グループは日本社会におけるパグウォッシュ精神の普及に努めたのである。湯川らはパグウォッシュ会議に参加した後、各種団体の講演会でパグウォッシュ会議について話したり、会議の内容や様子を紹介する論考を新聞や雑誌に寄稿したりしている12
 とはいえ、日本グループはパグウォッシュ会議を無批判に支持していたわけではない。H本グループの科学者は国際会議への参加や、内輪の勉強会および報告会を通じてパグウォ ッシュ会議の議論をフォローしつつ、日本グループ独自の立場からパグウォッシュ会議に貢献しようとしていた。前述の通り、バグウォッシュ会議の軍縮論議では核戦争の回避や核軍備競争の抑制をめぐる議論に重きが置かれるようになったが、 このようなパグウォッシ ュの軍縮論議のあり方に対して日本グループが不満を抱いていたと、 小沼氏は映像の中で語っている13。この不満は、 次回以降で取り上げる「日本版パグウォッシュ会議」の開催や日本グループの核抑止論批判へとつながっていく。

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1 パグウォッシュ会議に関する本稿の記述は主に文献に依拠している。Joseph Rotblat, Scientists in the Quest for Peace: A History of the Pugwash Conferences. Cambridge, MA: MIT Press, 1972.

2 第1回パグウォッシュ会議後に組織された継続委員会は、ラッセルを議長とし、イギリスのセシル・パウエル(Cecil Powell)とジョセフ・ロートブラット(Joseph Rotblat)、米国のユージン・ラビノビッチ(Eugene Rabinowitch)、ソ連のドミトリ・スコベルツィン(Domitri Skobeltzyn)の5名で構成された。翌58年にイギリスから1名、米国とソ連からそれぞれ2名が継続委員会に加わった。米英ソ3国以外の科学者が継続委員会に迎えられたのは62年のことであり、西欧と東欧から各2名、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカから各1名が増員された。Rotblat, Scientists, pp. 11, 88-89.

3 第1回から第10回のパグウォッシュ会議には、38カ国から延べ566名が参加した(オブザーバーは除く)。米英ソ3国からの出席者は360名に及び、その内訳は米国176、イギリス82、ソ連104名であった。Rotblat, Scientists, pp. 91-106.

4 Ibid., p. 199. なお、国際関係論や歴史学の分野では、冷戦時代にパグウォッシュ会議が果たした役割や、各国の政策および国際政治に与えた影響に関する研究が進められている。Matthew Evangelista, Unarmed Forces: The Transnational Movement to End the Cold War. Ithaca, NY: Cornell University Press, 1999. Bernd W. Kubbig, Communicators in the Cold War: The Pugwash Conferences, the U.S.–Soviet Study Group and the ABM Treaty (PRIF Reports No. 44). Frankfurt am Main: Peace Research Institute Frankfurt, 1996. Michael J. Pentz and Gillian Slovo, “The Political Significance of Pugwash,” William Evan (ed.), Knowledge and Power in a Global Society. Beverly Hills, CA: Sage Publications, 1981, pp. 175-203. Paul Rubinson, Redifining Science: Scientists, the National Security State, and Nuclear Weapons in Cold War America. Amherst, MA: University of Massachusetts Press, 2016. Lawrence S. Wittner, Resisting the Bomb: A History of the World Nuclear Disarmament Movement, 1954-1970. Stanford CA: Stanford University Press, 1997.

5 Rotblat, Scientists, p. 36.

6 Ibid., p. 17.

7 Ibid., p. 96. 日本の科学者がパグウォッシュの国際会議に参加する上で苦労したのは、渡航費の工面であった。この時期、前述の通り、欧州(ソ連を含む)と北米で会議が開かれたが、開催国までの渡航費は原則として各参加者が負担することになっていた。しかし、日本グループには安定した財源がなかった。海外渡航のために研究費を自由に使うこともできなかった。そのため、たとえば、第3回会議前には参加者を支援するため、募金が行われ、集まった十数万円は坂田らの旅費の一部に充てられた。また、他の目的で渡航する機会を利用してパグウォッシュ会議に参加することもあった。湯川は1958年9月1日から13日にスイスのジュネーヴで開催された第2回原子力平和利用国際会議に日本政府代表として参加した後、オーストリアに向かい、同月14日に始まった第3回会議に参加した。第7・8回会議に参加した豊田と第9・10回会議に参加した湯川は、日本学術会議の国際会議派遣予算(国費)を利用することができた。しかし、それ例外的なことであり、会議開催国に滞在する日本人科学者に参加を求めることもあった。第10回会議に参加した亀淵は当時、ロンドン大学で研究生活を送っていた。福島要一「朝永さんと学術会議」『日本の科学者』Vol. 14, No. 12 (1979年12月)、22-23頁。『朝日新聞』1958年8月5日。『日本学術会議月報』1961年10月号(第2巻、第10号)、10頁。『日本学術会議月報』1962年7月号(第3巻、第7号)、6頁。

8 Rotblat, Scientists, p. 202.

9 日本パグウォッシュ会議ヒストリープロジェクト映像「初期パグウォッシュ会議と日本グループ」前編(http://www.youtube.com/watch?v=Usc8Jf26zJI)。

10 小川岩雄「解説」、朝永振一郎『朝永振一郎著作集5 科学者の社会的責任』みすず書房、1982年)363-364頁。小沼通二「忘れられないこと」、松井巻之助編『回想の朝永振一郎』みすず書房、1980年、305-307頁。

11 第2回パグウォッシュ会議への日本政府の対応について、朝永振一郎は次のようなエピソードを紹介している。「いろいろな国の政府にその記録が送られった。それに対して、多くの国の政府高官から礼状が会議の事務局に送られている。アイゼンハワーに代わってアメリカ国務長官から、ネールやフルシチョフは自らの手で、ローマ法王からはしかるべき役僧から、そのほかいろいろの国の首相から、自分たちにも大いに参考になるといったような長文で鄭重な礼状がよせられたということである。あとで聞くところによると、ミスター・キシに送ったけれど、外務省の役人からありがたく受け取った、総理にお渡しします、という手紙が来ただけだということである。」湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一『平和時代を創造するために』岩波新書、1963年、84-85頁。なお、この「外務省の役人」とは、当時の外務省国際協力局長・宮崎章のことであり、その書簡には受領した記録を省内で検討するとだけ記されている。F. 320 Letter, Miyazaki to Eaton, April 30, 1958, Box 32, MC 167 Bernard T Feld Papers, Massachusetts Institute of Technology, Institute Archives and Special Collections, Cambridge, Massachusetts.

12 たとえば、湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一が岩波書店から出版した新書『平和時代を創造するために』(1963年)は、パグウォッシュ会議の歴史や活動を一般向けに紹介している。また、パグウォッシュ会議や日本グループに関する湯川、朝永、坂田の主要な論考は以下の文献に収録されている。湯川秀樹『湯川秀樹著作集5 平和への希求』岩波書店、1989年。朝永『朝永著作集5』。坂田昌一『科学者と社会 論集2』岩波書店、1972年。湯川らの論考はパグウォッシュ会議の公式議事録からは窺い知れない生々しい会議の様子を伝えており、パグウォッシュ会議の歴史を知る上で貴重な資料でもある。

13 日本パグウォッシュ会議ヒストリープロジェクト映像「初期パグウォッシュ会議と日本グループ」後編(http://www.youtube.com/watch?v=XAZa5EYRqrY)。

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