第 1 回パグウォッシュ会議後、同会議の成功を受け、科学者国際会議を継続的に開催するための体制作りが進められた。会議の企画や準備に関する意思決定機関となる継続委員会が設置され、1958 年3 月終わりから 4 月初めにかけてカナダのラク・ボーボーで第 2 回パグウォッシュ会議が開催されることになった。その間で日本国内では、第 1 回会議に参加した湯川秀樹と朝永振一郎、そして坂田昌一の 3 人の物理学者を中心として、パグウォッシュの日本グループが生まれた。
1957 年8 月に東京で開催された第 3 回原水爆禁止世界大会では、科学者国際会議の継続を後押ししようという動きがみられた。その本会議前に設けられた国際予備会議の期間中、放射能科学者会議が開かれ、そこではパグウォッシュ会議に参加したジョセフ・ロートブラット(Joseph Rotblat)と小川岩雄が報告を行い、同会議の議論や成果を日本を含む各国の科学者に紹介した。ロートブラットはパグウォッシュ会議後にイギリスに帰国する予定を急きょ変更し、同会議の成果を伝えるために来日したのである。放射能科学者会議ではパグウォッシュ会議の意義を高く評価し、その声明を支持する旨のメッセージをバートランド・ラッセル(Bertrand Russell)ら継続委員会に送付することが決定され、この決定は本会議の総会に報告された1。
同年 10 月に開かれた日本学術会議第 25 回総会では、パグウォッシュ会議の声明を支持する英文の声明(Resolution in Support of the Statement of the International Meeting of Scientists at Pugwash)が提案、採択された。この声明は、パグウォッシュ会議声明には大きな意義があると評価し、同声明の精神に支持を表明し、科学者会議継続の希望を表明するものであり、ラッセル、パグウ ォッシュ会議参加者、従来学術会議の声明を送っていた世界の科学者に送られた2。
パグウォッシュ会議への日本国内の反応として興味深いのは、世界平和アピ ール 7 人委員会のあっせんにより、同年 9 月にクラブ関東で開かれた「科学者懇談会」である。この会合では、湯川、朝永から第 1 回パグウォッシュ会議の報告を聞いた後、パグウォッシュ声明の線に沿った原水爆実験の禁止、世界の恒久平和確立のための科学者の社会的責任を強調し、その団結と協力を図ることを主旨とし、継続的に会合を開催することになった。原子力関係の研究・産業機関の代表や大学教授らが多数参加した同会合には、1956 年 1 月に原子力委員会の初代委員長に就任した正力松太郎も出席していた3。
このような状況の下、小沼氏が貴重な資料に基づいてインタビューの中で語 っている通り、日本国内でパグウォッシュ会議の声明を支持する科学者の活動を組織しようという動きが現れた。まず、同年 10 月 16 日に「核兵器問題についての懇談会」が開かれた。会場は、日本物理学会年会が開催されていた東京大学教養学部の会議室であった。この会合には 13 人が集まり、朝永が議長を務めた。小沼氏の証言によれば、湯川が第 1 回パグウォッシュ会議について報告し、その第 1 委員会での議論(放射能問題)について小川岩雄が補足説明を行った。参加者は今後の活動についても議論し、その結果、同会議の声明を支持し、その内容をどのように発展させていくかを考えるため、懇談会をつくり、意見の交換を進めようということになった。さしあたり物理学者の中で活動していくこととなった。次回会合の世話人には小川が指名された。今日の時点から振り返ると、この会合を日本グループの起源とみなすことができる。
翌 58 年 3 月 2 日には小川が勤める立教大学で第 2 回懇談会が開かれた。同月末に始まる第 2 回パグウォッシュ会議への招待状が湯川に届いたことから、日本の科学者の対応を検討することになったのである。この懇談会には、東京、名古屋、大阪、京都から湯川、朝永、坂田ら物理学者 18 人が集まり、朝日新聞社の田中慎次郎も列席した。第 2 回パグウォッシュ会議では「核兵器競争の現状の危険性とそれを軽減させる方法と手段」について小規模の非公式討論を行われることになっており、そのことを踏まえて報告や討議が行われた結果、同会議には日本からは出席しないが、「パグウォッシュ会議を支持する日本の物理学者の意見」を、核実験の即時無条件停止など 5 項目にまとめて会議に電報で送ることになった4。4 月 10 日に東京から打電された「意見」は、第 2 回パグウォ ッシュ会議の全体会で紹介された。こうして湯川、朝永、坂田の周辺には、パグウォッシュ会議を支持する科学者の輪が広がりつつあった。
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1 小林徹編『原水爆禁止運動資料集』第 4 巻、緑蔭書房、1995 年、262 頁。Michiji Konuma, “Personal Contacts With Sir Joseph Rotblat” (Reiner Braun et.al. (eds.),
Joseph Rotblat: Visionary for Peace. Weinheim: Wiley-VHC, 2007) pp. 183-186.
2 日本学術会議編『現代社会と科学者――日本科学者会議の 15 年――』大月書店、1980年、78-79 頁。
3 下中弥三郎伝刊行会編『下中弥三郎辞典』平凡社、1971 年、207-208 頁。
4 小沼通二「忘れられないこと」(松井巻之助編『回想の朝永振一郎』みすず書房、1980年)303-304 頁。『朝日新聞』1958 年 4 月 5 日。
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