1957年7月、ラッセル・アインシュタイン宣言の中で提案された科学者国際会議が、カナダのノヴァスコシア州パグウォッシュで開かれた。この会議には、人類が直面する核の脅威や世界に平和を確立する方途について話し合うため、米ソ両国を含む世界10カ国から22名の科学者が参集した。日本からは3名の物理学者――湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄――が参加した。この会議を機にパグウォッシュ会議が誕生し、同様の科学者国際会議が継続的に開催されることになったことから、同会議は第1回会議と呼ばれている。その意味で日本の科学者はパグウォッシュ誕生から、その活動に関わってきたといえよう。
ラッセル・アインシュタイン宣言発表後、科学者国際会議の開催準備を進めたバートランド・ラッセル(Bertland Russell)は、当初はインドのネルー(Jawaharlal Nehru)首相の申し出に応じて、1956年12月(のちに1957年1月に変更)にニューデリーで会議を開催することを計画していた。ラッセル・アインシュタイン宣言署名者を含む世界各国の科学者に招待状が送られ、多くの科学者から参加の同意を得ていた。日本からは同宣言に署名した湯川に加え、物理学者の朝永、原爆症研究の権威で医学者の都築正男が招待され、3者とも参加に同意していた。
ところが、その後インド会議計画が頓挫し、カナダのパグウォッシュで会議を開催する運びとなった。1956年10月にハンガリー動乱とスエズ危機が勃発し、その余波でインド会議開催は取り止めになった。しかし、ラッセルは科学者国際会議の開催をあきらめなかった。ラッセルは実業家サイラス・イートン(Cyrus Eaton)からの支援提供の申し出を受け入れ、1957年7月にイートンの生まれ故郷パグウォッシュで会議を開催することを決定した。このような大幅な計画の変更もあったが、日本からは湯川と朝永、そして湯川の甥で物理学者の小川岩雄(立教大学)がラッセルの招待で同会議に参加することになった。
こうして紆余曲折を経て、1957年7月7日から10日にかけてパグウォッシュで科学者国際会議が開かれた。日本国内では湯川ら日本人科学者が参加することもあり、この会議は開催以前から注目され、新聞各紙で報道が行われた。パグウォッシュ会議では出席全員が参加する全体会とは別に、三つの委員会が設けられた。その第1は原子エネルギーの利用の結果起こる障害の危険、第2は核兵器の管理、第3は科学者の社会的責任を議題とした。朝永と小川は第1委員会に、湯川は第2委員会に加わった。
第1委員会では、当時、核実験から生じる放射性物質が人体や生態系に及ぼす影響をめぐって論争が続いていたことから、この放射能問題について科学的知見に基づいて討議が進められた。初日から会議に出席した朝永や小川は、放射能の危害に関する日本側の研究成果と見解を他の国々の学者に了解させるために懸命の努力を行った。朝永は、小川らが放射能汚染の観測や分析を続けていた立教大学に出向き、専門家の話を聞くなど綿密な準備をして会議に臨んでいた。
湯川は核実験禁止などを訴える決議文を携え、途中から会議に参加した。この決議文は、湯川自身も委員を務める「世界平和アピール7人委員会」から託されたものであった。同委員会は平凡社社長の下中弥三郎の発意によるもので、日本の平和を脅かす重大問題の発生に対して、国内外にアピールすることを目的としていた。下中は世界連邦運動建設同盟理事長、湯川は同盟顧問を務めており、両者の間には世界連邦運動を通じたつながりもあった。なお、湯川らは渡航にあたって下中から資金援助を受けていた。第1回パグウォッシュ会議の声明には、「下中弥三郎氏その他の人々からも貴重な援助をうけた」との一節が盛り込まれている。
インタビューの中で小沼氏は、パグウォッシュ会議の誕生と日本の科学者に関わる興味深いエピソードを披露している。第1回パグウォッシュ会議に参加したジョセフ・ロートブラット(Joseph Rotblat)が、1957年8月に来日した。ロートブラットは長年にわたってパグウォッシュ会議の活動に関わり、1995年にはノーベル平和賞を受賞した科学者である。小沼氏によれば、ロートブラットは同月に東京で開催される第3回原水爆禁止世界大会の助言者になることを引き受けており、同大会に参加することは求められていなかったものの、第1回パグウォッシュ会議の成果を日本に集まった世界各国の科学者たちに報告したいとの思いから、同会議後にイギリスに帰国する予定を急きょ変更し、原水爆禁止世界大会に参加するために日本を訪れたのであった。その国際予備会議の期間中に開かれた放射能科学者会議では、ロートブラットと小川が報告者として登壇し、パグウォッシュ会議の議論や成果を紹介したのち、パグウォッシュ会議の意義を高く評価し、その声明を支持する旨のメッセージをラッセルら継続委員会に送付することが決定されている。
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1 ジョセフ・ロートブラット(小沼通二訳)「パグウォッシュ会議の誕生」(『パリティ』第17巻第2号、2002年2月)28頁。
2 湯川秀樹「科学者の責任――パグウォッシュ会議の感想――」(湯川秀樹『湯川秀樹著作集5 平和への希求』岩波書店、1989年)154-155頁。Proceedings of the First Pugwash Conference, pp. 33-34, 43, Box 71, Bernard T. Feld Papers (MC 167), Massachusetts Institute of Technology (MIT), Institute Archives and Special Collections, Boston, MA.
3 小川岩雄「パグウォッシュ会議と朝永博士」(『日本の科学者』14巻12号、1979年12月)16-18頁。
4 『朝日新聞』(夕刊)1957年7月4日。世界連邦建設同盟編『世界連邦運動20年史』世界連邦建設同盟、1969年、208-210頁。
5 下中弥三郎伝刊行会編『下中弥三郎事典』平凡社、1971年、207、338頁。
6 湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一編著『平和時代を創造するために――科学者は訴える――』岩波新書、1963年、180頁。
7 小林徹編『原水爆禁止運動資料集』第4巻、緑蔭書房、1995年、262頁。Michiji Konuma, “Personal Contacts With Sir Joseph Rotblat” (Reiner Braun et.al. (eds.), Joseph Rotblat:
Visionary for Peace. Weinheim: Wiley-VHC, 2007) pp. 183-186.
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